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Reviews

PPAS特集記事

アメリカでのセルフポートレイト
家族写真が見せる20年間の変化
左:1983年、1枚目の写真。
右:2002年、20枚目の写真。

写真との出会い

写真に興味を持ち始めたのは、1975年にフルブライト日米芸術家交換留学生として渡米したことがきっかけであった。当時、技術的に注目されていた実験映像(ビデオアート)等に興味があったので、留学先に希望したのは映像学科であった。しかし、映像の基本知識もなく、英語も堪能でない私には、化学用語や専門技術、映像知識などの英語の講義についていけるはずはなかった。挫折し、映像を諦めざるをえなくなり、写真学科に移籍した。しかしこの移籍が、現在の私の作家活動のスタートになったのである。

日本で版画家としてシルクスクリーンを中心とした作品を発表していた時、その制作過程で、写真撮影などはプロの写真家に依頼していた。他人任せの写真だから自分の思うようなイメージを定着できずにいたので、より自分のイメージを表現したいと思い、写真に関する技術だけでも身につけるために写真学科を選んだ。しかし現実は決してそんなに甘くはなく、英語力を必要とするのは映像も写真も同じであった。基本的な専門用語を知っている学生たちと同等に学ぶには私は余りにも知識や経験不足であったが、実験や失敗を繰り返して、少しずつ技術や理論を身につけていった。失敗から多くのことを学んだ留学時代であったが、その経験は、今も作品や生き方に大きく影響を与えていると感じている。

また、この写真学科時代のさまざまな出会いは、私の写真への考え方を変えるものであった。それまでは、写真を芸術などではなく技術を中心にした広告や宣伝媒体としてしか認識していなかったので、写真学科の学生たちが表現する生き生きとした芸術作品に出会った時は驚きとショックの連続であった。さらに、交換留学の若いゲストアーティストであった私に、アメリカ国務省の計らいで紹介された写真家は、あのアンセル・アダムス氏であった。アンセル・アダムス氏はアメリカのコロラドやヨセミテの大自然を撮影している風景写真家であり、当時から世界中で注目されていた写真家の一人であった。今となれば夢のような幸運な出会いである。

前年の1974年に「ニュージャパニーズ・フォトグラファー展」がニューヨーク近代美術館で初めて開催され、日本の現代アーティストとして写真家の細江英公、東松照明、森山大道氏らが出品していた。彼らの名を初めて耳にする私に、アンセル・アダムス氏は呆れもせず、貴重な時間を割いてくれた。その優しさへの感謝の気持ちと、彼から贈られた言葉「失敗を恐れる必要はない。何でもやることだ」は、私の考え方の原点であり、教育の基本にもなっている。「あらゆる人に対して大きな優しさを持ち続けたい」と思い続けているのは、彼との出会いがあったからである。彼と出会い過ごしたほんの数時間は私の大切な宝である。彼と出会ったことで、私は作品の捉え方が変わったように思っている。アーティストは、その人の一つの作品を取り出して評価されるのではなく、また作品も、それ一つを評価するのではない。アーティストが残した作品群がそれぞれ繋がり、線として、そして面として見えることが素晴らしいと思うのである。だから、一つひとつの作品がたとえその時代に受け入れられなくても、それは失敗ではなく、アーティストの創作活動の一通過点であると思うのである。

写真の作品はセルフポートレイトから始まった。アメリカでスタートしたこの作品は、自らが自らを被写体とし、異国の地で自分を見定めようとする試みである。その後も「自分とは何か」という自分自身の軸をブレさせないための手段の一つとして、ライフワークになっている。また、自宅の前という定点で、1983年から撮り続けた20年間の家族写真は、風景の変化、家族の変化を留め、まさに点が線となって私自身の生き様をも表現している。

私の作品制作には、時間の概念が大きな要素になっている。作品は継続的な時間の流れのなかで与えられたものなのである。また時間は環として存在するものだと意識している私は、循環のなかに存在する時間軸をずっと探し求めて、時間の継続を意識した作品を制作し続けているのである。

アメリカ留学の機会を得て、多くの出会いや数え切れない失敗を経験したことが、現在にどれだけ影響を与えて役に立っているかは計り知れない。留学当初、貪欲にアメリカから学びたいと思っていたが、友人の学生や教授たちからは、逆にそれ以上に日本、そしてアジアに対する質問を浴びせられた。しかしその時の私は、自国の歴史と文化に関して語る言葉をまったく持っておらず、それらの質問に何も答えることができない惨めな自分を思い知ったのである。そのことが、私に写真やピンホール写真といった表現手段を超えた作家としての根本的な課題、研究テーマを与え「われは何者?」「自分のアイデンティティーが何なのか?」と問い続け、今も探し求めさせている。

帰国後、私は人間が自然(宇宙)との関わりのなかで、生かされていると感じる「偶然と必然」の意味を探求するようになり、インド、中国、韓国、チベット、日本などアジアを中心にヒンズー教、佛教(密教)、道教、易、陰陽五行などに現れるシンボルとしての形態、色を研究し、それを造形作品として表現しているのである。