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PPAS特集記事

日本版画協会展で
グランプリを受賞した版画作品

アートの世界へ

高校時代はアートよりも地質学や考古学に興味を持っていた私にアートの世界を開いてくれたのは、1年生の時に非常勤で赴任してきた多摩美術大学を卒業したばかりの美術教師であった(その2年後、母校である多摩美術大学油画科に戻り、私と同時期を大学で過ごした。彼とは今でも師弟関係が続いている)。若い彼とゴッホ展やシャガール展などに同行するようになり、巨匠たちの迫力ある作品に触れるにつれて徐々にアートへの世界観が変わっていった。私は短気で何事もすぐに結果がでないと納得できない気質だったので、アートは少なくとも作品として結果の出せる世界に思えたのである。そして一気にアートにのめり込んでいった。しかしその後、アートはそう簡単に結果を出せる世界ではないと気付いた。

当時、もう一人、絵描きになりたかったという英語教師が「若い頃は夢に向かって進みなさい」と後押しをして応援してくれた。二人の教師との出会いと導きで、多摩美術大学油画科に進んだ。しかし「結果」に拘っていた私は、油絵に馴染めないまま1年生の秋を迎えた。そんな時、故・池田満寿夫のヴェネツィア・ビエンナーレ展版画部門のグランプリ受賞作品に京橋の画廊で出会い、とても感動し影響を受けた。「版画は、一度刷られた作品は一つの表現として完結する」と私は思ったのである。3年生から始まる大学の版画の授業が待ち切れなかった私は、独学で版画を学び始め、次々に技術や表現方法を学んで版画にのめり込んでいった。そして2年生の時、日本版画協会展に入選、大学で版画の授業が始まった3年生の時には新人賞を受賞した。

当時1968年は日本中で大学紛争が起こり、授業を行える環境ではなかったので、私は作品制作に没頭していった。そして4年生になったばかりの時に同展のグランプリを受賞したのである。卒業間近になってようやく紛争が終結し始めて、多くの教師や学生は大学に戻っていったが、私は大学には戻らなかった。今でも経歴を書く時、多摩美術大学油画科「卒業」ではなく「学ぶ」としているのは、当時のその様な状況への私なりの拘りなのである(後に母が大学卒業証書を受け取ってくれた)。

混乱の時代のなかで、美術研究所(美術大学の予備校)時代からの友人である吉田光彦氏(本誌裏表紙イラスト作家)と後藤真祈子氏(のちに吉田夫人)らとシルクスクリーン印刷で版画作品やポスター等を制作する会社を起業し、作家としての活動を広げていった。そして1972年、偶然にも二つのことがきっかけで拠点を京都に移すことになった。一つは、京都市立芸術大学で版画コース開設時に、当時珍しかった写真製版で版画制作をしていた私に声がかかり、講師に招かれたのである。もう一つは、京都の老舗画廊である平安画廊の2周年記念企画の一つとして個展が決まったのである。以来37年間、縁故もなく知人もいなかった京都に居を構えて作家活動を続けている。あらためて振り返ると、ご縁や人との出会いで生かされているとつくづく思うのである。